河原町・芹町の町家の特徴


河原町・芹町地区の町なみは、彦根城の城下町の南東隅に形成されたかつての町人地です。城下町と中山道、さらには東方の農村部および山間部を結ぶ芹川の往来に沿った町なみで、北から江戸時代の川原町、袋町、安清町、善利新町にあたります。川原町は元和4年(1618年)以前、南端の善利新町も寛永18年(1641年)には成立したと言われています。

江戸時代前期に河川を付け替えて形成された城下町の特徴ある地割りをよく伝えるとともに、街路に沿って江戸時代から昭和戦前期にかけて建てられた町家等を良く残し、商家町としての歴史的風致を良く示すことが評価され、平成28年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。ここではこの地域の町家の特徴について取り上げてみます。


  1. 河原町・芹町の町家の断面形状の特徴

関西の伝統的な平入りの町家では、一階と二階の壁面線は一致しているものが多い(図2)。京都や、近江八幡や長浜の町家は、一階と二階の壁面線が一致しています。これらの地域では商売に適した前面をすべて開口できるすりあげ戸が好まれました。2分割もしくは3分割したすりあげ戸は二階の床を突き抜けて収納されるため、一階と二階の壁面線をずらすことはできなかったのです。

ところが河原町・芹町の町家を見ると、6割近いの町家の一階部分が半間(90cm)ほど前面に出ています(図1)。一階と二階の壁面線は一致している町家は3割にとどまります。一階壁面を半間ほど前に出す町家は成の高い桁を置き、二階からの荷重をこの桁に持たせ、半間ほど外に出る部分に畳を敷くか床板を張り、室内と一体として利用しています。

出格子がその出も高さも限られているのに対し、一階壁面を半間ほど前に出す町家の圧迫感は強く、町なみ景観にも少なからず影響を与えています。このような建築当初から一階壁面を前に突出させる町家は、彦根の城下町の町人居住区や中山道の街道沿いで散見されます。

こうした町家の表構えの違いを江戸末期に明確に指摘した人がいます。文化7年(1810)に大坂で生まれ、31歳の時に江戸に移り、見聞きしたことを事細かに書き残した喜田川守貞です。守貞の残した『守貞謾稿』は近世風俗史の基本文献とされています。建物についても関東と関西の違いが詳述されています。その中に「江戸の市店、表庇上と庇下は三尺(90cm)を出す。庇下三尺前に出るなり。(中略) 京坂は表柱も庇上下一にて直立なり。江戸にてこれを大坂建てと云ひて官禁とす」とあります。守貞の分類によれば、近江八幡や長浜の町家は大坂建てとなり、江戸では禁止される建て方でした。これに対して彦根では、一階の壁面線を半間前に出す江戸の建て方をした町家が多いと言えます。彦根の町家には関西の町家と違う特徴をもって建てられていたと考えられます。


     2. 河原町・芹町の町家の町家の平面構成の特徴

調査対象地区の町家は平面構成から、長屋形式の町家、1列型町家、2列型町家の三種類に分類できます。長屋形式の町家は2~4戸の町家が境壁を共有して建てられたもので、借家として建てられたものです。安政4年(1857)のこの地区では借家が全体の約58%を占めていましたが、この高い借家率が表通りに長屋が並ぶまちなみ景観を醸成したと考えられます。

1列型町家は、トオリニワに沿って3室ないし4室の居室がならぶもっとも一般的な町家です。間口は3間半から4間のものが多い。2列型町家はトオリニワに沿って2列×3室の居室がならぶやや規模の大きい町家です(図3)。彦根の城下町でも散見される間口が5~6間の一般的な平面構成の町家である。

特徴的なのは、二列型町家の居室の幅がトオリニワに近い一列は幅1間、奥の一列の居室は幅2間を呈する町家である(図3)。奥の一列が間口を2間確保し、3室の八畳間で構成され、トオリニワに近い一列が四畳間で構成されるのと対比的である。幅1間の室列は居室としての機能より、廊下もしくは控えの間のような役割を果たしていたと考えられます。

この間取りの特徴は二階の空間構成にも影響しています。幅1間の室列の上部、すなわち二階部分は、表通り側の1室の上部は通常のツシ二階として利用され、奥側の二階部分とは壁で隔てられ、トオリニワの炊事の煙が流れ込まない造りとなっている。これに対して奥側の2室の上部は開放的である(図3、4黄色部分)。トオリニワとの間に壁はなく、手摺りや仕切りもない。日常生活で出る煙も流れ込み、もともとの壁が残っている町家では壁は煤で黒くなっています。薪や柴を備蓄するための柴置きと考えられますが、下から見上げると大きな空間が広がり、開放的です。

幅1間の室列を持つ町家の類例は、彦根の城下町や中山道沿いの高宮、近江八幡の武佐、などで見ることができます。



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